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ひねさんのなぞにみちたにちじょう

日常とか色々と、つらつら、ぼちぼち書き綴り~。

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2006-04-29 [ Sat ]
もうすぐ母が亡くなってから1年になる。

母の最初の入院からのこと、思ったことを、ただ自分のためだけに書き散らそうかと思う。
他人が読んで意味のあるものでは無いけれど自分のために。


2004年12月。
母が、以前から悪いと言っていたすい臓の検査のために入院。
入院先のN病院から突然の電話がくる。
母の主治医からだった。
母の病気について話があるとのことだったが、この電話だけで私は母の病気がガンであると確信してしまった。
ネットで予備知識を仕入れ、次の日の夜N病院に向かった。

案の定主治医の説明は私の仕入れた膵臓がんの知識とほぼ合致した。
最初ははっきり言わなかった主治医だったが、私が生存率の話をすると、そこまでわかっているならと、それまでのやや楽観的な説明の仕方を覆しすべてを話してくれた。
これからの余命をどう生きるか、それを考えなければならないと。
しかしそれには告知が必要であり、主治医は本人に告知すべきかどうか、迷って私を呼んだのだった。
私には兄がいるのだが母と同居しており、兄にすべてを話してしまったら、告知を選ばなかった場合でも態度や言葉の端々から見破られてしまう可能性が高くなるので私にまず告知したのだった。

私は迷わず告知を選んだ。
常々告知は絶対にして欲しいと言っていたからで、私も同じ考えだったからだ。
私は主治医の話を聞いたその足で母の病室に向かった。
最初母は驚いていたが、私の突然の来訪ですべてを悟ったらしい。

母とともにもう一度主治医の説明を聞いた。
説明は丁寧で、母は聞きたいことはすべて聞いたらしく、自ら手術することを決めた。
先にもっと詳しく説明を聞いていた私は、やや簡単な説明に思えたが、まさか1年持ちませんとかはっきり言うわけにもいかなかったのだろう。
予備知識がなければ私も納得していたに違いない。
医者とは話術も演技力も必要なのだなと、妙なところで感心してしまった。

2005年1月。
別の病気の可能性にかけて、一応やってみた治療と検査のため入院。
結果、ガンであることが確認された。

2月。
9日。
手術の日。
9時間に及ぶ大手術だった。
手の施しようが無ければ早く終わると聞いていたので、長く時間がかかった事は私に希望を与えた。
手術後、摘出したすい臓や胆のうを前に主治医に説明を受けた。
取れるだけはとったが、とりきれなかった事。
転移も認められること。
余命は持って1年、せっかく大手術に耐えてもらったのに申し訳ない、なるべく苦痛の無いように長く生きられるよう努力すると。

予想通りの結果だった。

11日、病院に行くともう母は自分で歩いていた。
手術のあとは痛いが、以前のような背中の痛みが取れたらしく、元気が出てきたのだという。
どうやら痛みが無くなったことでガンが治るのではないかと思ったらしい。
生きる希望があれば病気の進行が遅くなることもある。
奇跡的に治ることもある。
だが、変に希望を持ってしまったら後で落ち込むのではないかと私は少し暗澹たる気持ちになった。

それから休みごとに病院を訪ねたが、母は見る間に元気を取り戻していった。
私も奇跡がおきつつあるのではないかと思うようになっていた。
だが、母も交えた手術と検査の結果の説明で主治医ははっきりと言った。
「大変厳しい状況です」
と。

3月。
病院を訪ねた私に母は言った。
「あと15年生きたいなぁ」
実際に母も病院のベッドにいるのが不思議なほど元気そうだった。
私は今奇跡を見ているのだと思った。

19日~21日。
外泊。
翌週に退院を控え、体を慣らすため。
一緒に買い物にいったり母はとても元気だった。

25日。
退院。

そして、その週から抗がん剤の点滴治療が始まる。

4月。
2度目の抗がん剤治療のあと、母が弱音をはく。
抗がん剤の副作用がきついのだ。
食事をほとんど取れなくなり、そのせいか急に体力が落ち、なぜかまた背中の痛みを訴えるようになった。
痛みの原因は手術あとの癒着のためだと病院では説明された。
が、それは言い訳に過ぎないことはわかっていた。
痛み止めと言われて出された薬がMSコンチンだったからだ。
要はモルヒネの錠剤だ。
抗がん剤の治療は中止された。
そしてみるみる母は衰弱していった。

24日。
痛みを我慢できず救急車を呼ぶに至り、母はついに入院を決意した。

25日。
ほとんど歩くこともできないほど衰弱した母をつれてN病院へ。
母がトイレのため席をはずしたとき、主治医は言った。
「もうあと2~3週間ぐらいかと思います。もっと長生きさせてあげられると思って手術をすすめたけど、結果的にしんどい思いをさせるだけになって申し訳ない。これからはなるべくしんどくないようにさせてもらうから、何でも言ってください」
看病のために仕事をやめることを決意。
5月の20日で退職が決まった。
そこまで母がもつかどうかはわからなかったが、余命宣告などというものは短めに言うものだと思っていた。

28日。
夜。
仕事終わりに病院に行った私を待っていた母は、25日に見たときよりもっと衰弱していた。
もう、まったく歩くことはできなくなっていた。
病室に泊り込んだ。

5月。
GWの間、ずっと病院に泊まった。

8日。
夜。
帰れという母に抵抗して、できるだけいろんな話をした。
珍しく笑う母をみた。
そして、笑う母の顔をみたのはこれが最後になった。
いや、まともな会話もこの日の別れ際の会話が最後になった。

「ほな、また明日の夕方くるからな」
「危ないから気をつけるんやで」
「わかってるって、ほなら行くわな。おやすみ」
「おやすみ」

手を振る母に背を向けて。

その翌日から毎日、4時に仕事を終わらせてもらったら、そのまま車に飛び乗り約1時間の距離を病院に通い、朝は6時ごろに病院を出て仕事に通うという生活を母の死の直前まで続けた。
最終的に45分ぐらいで病院に着くようになってしまったが、当時の私はスピード違反とかどうでもよかった。
ただ、早く母のところに行かなければという一心だけだった。

せん妄なのかモルヒネの副作用なのか、9日からはまともな会話ができなくなった。
徐々に寝返りさえうてなくなり、ヘルパーさんに手伝ってもらって寝返りをうたせた。
こうしないとすぐにじゅくそうができてしまうからだ。
新陳代謝が極端に落ちると余計にでき易いらしい。

24時間、昼は兄が、夜は私が母にはりついて様子を伺う。
血圧が下がると、アラームの鳴る機械が母に付けられた。
ナースステーションでモニターもできるらしい。
これがすぐに鳴るのだ。
夜中に何度も何度もアラームが鳴り、ただでさえ浅い眠りを何度もさえぎられた。
だが、逆に知らない間に母が逝ってしまう恐れも薄れた。

16日。
母はいつ死んでしまってもおかしくない状況まできていた。
会社を休もうと思っていたところに、兄がやってきて言った。
「今日はまだ大丈夫やから仕事行き」
なぜそんな確信があったのかはわからなかったが、なぜか納得した私は仕事に出かけた。
事実私が戻るまで母は無事だった。

夜。
血圧が下がりすぎて測れなくなった。
家族を呼べと言われて、すぐに兄を呼んだ。
ここでもなぜか兄はまだ大丈夫だと言っていた。

17日。
朝が来た。
ここでようやく兄が親戚に電話をしろと言い出した。
何かがわかるらしい。

時間ははっきり覚えていない。
午前中だった。
吐き出した息を吸わなくなった。
看護師がばたばたと何人もやってきた。
主治医がきて死亡確認をした。
あっさりと終わってしまった。
涙は出なかった。
悲しいという気持ちはまだ沸いていなかった。

親戚は間に合わなかった。
下のおじ(母は3人兄弟。兄二人)夫婦が直後にやってきて大泣きした。

綺麗に化粧してもらった母と対面した。
葬儀屋にたのんで、家の前を通過してから式場に向かう。
一度安置しようかと思ったのだが、小さな家であることと、葬儀屋の好意で式場を一日多く貸してもらうことができたので、家の前を通過するだけにとどめたのだ。

葬儀というのは忙しい。
だが、ほとんどの準備を兄と二人だけでやった。

父は生きているが15年ほど前に離婚しているので、父本人はともかく、それ以外の父方の親戚の協力は無い。

母方もあてにはできなかった。
最後のまともな会話をした夜、母は上のおじとの確執について話してくれた。
50年間誰にも言えず苦しい思いをしながら抱えてきたことだった。
ここで私はおじに対してすこし隔意ができた。
そして母が亡くなったことを伝える電話でおじが言い放った一言で、この人とはできる限り付き合いをやめようと決意した。
「ふん。死んだんやったら急いで行ってもしゃーないな。遠いし通夜に行くわ」

妹が死んでもこんなもんで済ませるのが普通なのか。
免許の無い下のおじがきてくれたのに、免許も車もあるおじがたかだか30分の距離を遠いと言うのか。
動転して言いたいことが言えなかったとか、落ち込んで家を出れなかったとか、もしかしたら色々理由があるのかもしれないけど、病院に駆けつけて大泣きしてくれた下のおじとの差に私は愕然としてしまったのだ。

18日。
通夜。
線香の番をしてくれていた人が、風も無いのに遺影の横の黄色い花だけがばさばさと揺れたと大騒ぎしていた。
そういえば母は黄色が好きだった。

19日。
葬儀。
葬儀の間は泣かなかったが、火葬場で火を入れられたとき初めて涙がぼとぼととこぼれた。
二度と母の顔を直接見ることができなくなるのだと思ったら、次から次へと涙が出た。
持っていた遺影に涙が落ち、母が泣いているようだと言われて涙が止まった。
母を泣かせるわけにはいかない。

骨上げで火葬場の人に色々説明してもらった。
病巣は黒く焼けるので、どこが悪かったかはすぐわかるらしい。
母の場合は、すい臓肝臓と脳が黒かった。
今となってはわからないが、脳に遠隔転移していたのかもしれない。
そうすればまともな会話ができなくなった理由も合点がいく。
通常、末期ガンの患者にモルヒネを投与してもそういう副作用がでることはあまり無いのだ。
私が今まで読み漁った闘病記でも、モルヒネで錯乱したとかいう話は一時的にはあっても、ずっとっていうものは無かった。

そして母はやっと家に帰ってきた。
入院から25日目。
主治医の言ったとおり、3週間あまりだった。


葬儀後、母の部屋を片付けていると日記のようなものが出てきた。
小さなメモ帳にその日の体の調子や病気に対する不安が書き綴られていた。
私は近くにいたのに、ほとんど母の不安を和らげることができなかった。
もっと何かできることがなかったのかと、今でも思う。

私の周りで親をなくした人はほとんどいない。
病気や事故でも無い限り、私の年齢から考えるとそれもまあ当たり前のことだろう。
これから親を見送る立場にいる人はできるだけ後悔のないように、元気なうちからできるだけのことをやってほしいと思う。
月並みだけれど、死んでしまったら親孝行はできないのだから。
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2005-07-04 [ Mon ]
形あるものはいつか壊れる。
関係性とか想いとか、形の無いものだって壊れたり薄れたりする。

永遠なんて無い。

知ってるけど。
でも思い知らされるのはつらい。

私はいったいなんですか?
私はいてもいいものですか?

ずっと探してるけど見つからない。
私が私である理由。




…世迷言。

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